七色

感じることを怠けないように。

 高く香れ

祖母の四十九日の法要で、もう住む人のいない祖母の家を訪ねる。今までそんなに億劫に感じたこともないのに、2時間半くらいの道のりがずいぶんと遠かった。家の中は喪服の親戚が集まっててわやわやしてた。母たちは、故人を偲ぶと言うよりは何かを物色するみたいにそわそわしてて、それはわたしも同じかもしれなかった。洗面所に手を洗いに行って、以前は日当たりのいい窓際に並べて置いてあった鉢植えがそのまま浴室に移されて、枯れるに任せてあるのを見つけて、なんだか胸の奧がぎゅうっとした。

お坊さんを迎えて法要を終えて、家を出てお墓まで歩いていくとき、庭の梅の木の蕾がふくらんで、ひとつふたつはもう開花してるのを見つけて、更に胸がぎゅうううっとする。この梅も来年はもう咲くことはないんだ。そう思うと、自分でもおかしいくらい悲しくなる。家が、建物が壊されてしまうのは、ほんとうに仕方がないって思えるのに、梅の木が伐られる、押しつぶされることを思うと、母たちを恨んでしまいそうになる。

鉢植えのことも、柚子や柿や梅の木のことも、母たちは気にしない。気にならない。そんなふうにわたしにも気づかない、気にならないことがたくさんたくさんあるんだろう。ただ、生まれ育った家の庭にあった梅の木を、いまだにときどき夢に見る。わたしが梅に惹かれるのは、頭の中であの梅がまだ咲くからだと思ってる。偶然通りすがった、道端の梅の花がふくらんできたのを見つけたみたいに、携帯のカメラを向けて朗らかに笑ったりはできない。悲しい。

ほんとはずっとその場に佇んでたかった。ひとが死んで、家が死んで、一緒に庭も死んで、だけどそこに植えられた木々は生きてて、花をつけて、実を付ける。……些細なことかなあ。でも、やっぱり悲しいよ。そうやって好きだった木が何本も何本も伐られていく。面倒をみられるわけじゃないから、口出しは出来ないけど。せめて梅が咲いてる間にもう一度訪ねてゆきたい。